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琉球・沖縄の歴史上の偉人や事柄辞典。 title=

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国王 での検索結果

36件の該当データがありました。

浦添ようどれ (うらそえようどれ)

国指定史跡「浦添城跡」の一部をなす琉球国王の墓。
[史跡] [国指定史跡] [墓陵]
■浦添市仲間2丁目在。
英祖王統・初代王「英祖」と第二尚氏王統・7代目王「尚寧王」の墓陵であり、西室に英祖、東室に尚寧王が埋葬されている。
英祖王統・初代王「英祖」の1273年に英祖自身により造営されたと考えられている。
■「ようどれ」とは夕凪を意味する言葉。

程順則 (ていじゅんそく)

「琉球の五偉人」の一人。日本中に影響を与えた教育の祖。
[人物] [学者]
■第二尚氏王統・11代目国王尚貞王、12代目国王尚益王、13代目国王尚敬王の時代に活躍した琉球王国の士族。
■1663年 - 1735年。
■唐名:程順則。名乗:寵文(ちょうぶん)。→程順則・名護親方(なぐうぇーかた)寵文。
■1706年、「琉球国中山王府官制」に九品十八階の位階制度を制定。
■1714年、琉球で最初の公的教育機関となる明倫堂の創設を建議した。
■「六諭衍義」を清から琉球へ持ち帰ったが、それが後に日本各地の寺子屋に普及する事になった。

宝剣「千代金丸」 (ちよがねまる)

琉球王家尚家伝来品・三振りの一つ
[重要文化財] [宝剣]
怕尼芝王統(北山王国)・3代目王・攀安知が、中山王・思紹の子・巴志の北山攻めの際に使用した宝剣。
怕尼芝王統・先祖伝来の宝剣とされる。
■後に尚氏の手に渡った。
■「琉球王家尚家伝来品」三振りの宝剣の一つ。
■2006年、「琉球国王尚家関係資料」として国宝に指定された。
■指定名称は「金装宝剣拵 刀身無銘(号 千代金丸)」。
【琉球王家尚家伝来品・三振り】
・千代金丸(ちよがねまる)
・治金丸(ちがねまる)
・北谷菜切(ちゃたんなきり)

識名園 (しきなえん)

琉球王朝の迎賓館。
[史跡] [世界遺産]
■中国皇帝からの使者である冊封使をもてなすために作られた庭園。
■琉球王国・第二尚氏王統・14代目国王尚穆王の時代に造園が始まり、尚温王の1799年に完成した。
■第二次世界大戦後にて被爆したが戦後修復された。
■2000年11月に首里城跡などとともに
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」
としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
【連絡先】
〒902-0072 沖縄県那覇市真地421-7
TEL:098-855-5936

園比屋武御嶽石門 (そのひやんうたきいしもん)

琉球王国の聖地であり拝所の最高峰。
[史跡] [世界遺産]
■首里城に隣接し、歓会門と守礼門との間にある「園比屋武御嶽石門」をくぐった先の森が園比屋武御嶽である。
国王が巡礼に出る前や、聞得大君就任の際の最初の拝礼にも使われた。
■尚氏ゆかりの地、伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を勧請し祭っている。
■沖縄県指定史跡。
■2000年11月に首里城跡などとともに
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」
としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

琉球の位階・称号 (りゅうきゅうのいかい・しょうごう)

身分・称号
[官職] [制度]
【身分・称号】
■王族 …王子、按司。
■上級士族 …親方、親雲上。
■一般士族 …親雲上、里之子、筑登之、子、仁屋。
※王子とは国王の子、王叔、王弟の称号及び位階。
また、正室の子を直王子、側室の子を脇王子と呼んだ。
王子の称号・位階は一代限りで、王子の子は按司となった。
※按司とは王家の分家の当主を表す称号だが、のちに7代続けて功績を残せない場合は、士族へと格落ちすることとなった。

琉球の位階 (りゅうきゅうのいかい)

九品十八階の位階制度
[官職] [制度]
■琉球王国・第二尚氏王統・3代目国王尚真王の時代にその基本形が確立された。
■1509年、金銀の簪(ジーファー、かんざし)によって貴賤の別を定めた。
■1524年、六色の冠(ハチマチ)によって等級が制定された。
■のち1706年、「琉球国中山王府官制」に九品十八階の位階制度を程順則らが制定。
■1732年、位階昇進の細目を記した「位階定」を蔡温が制定。
■位階制度は上級士族と一般士族に適応されたもので、王族は位階制度の上に位置づけ、平民は位階制度の下に位置づけられている。

球陽 (きゅうよう)

全30巻からなる壮大なる歴史史書。
[書物] [正史]
 生没年:1743-1745
■1743年~1745年、第二尚氏王統・13代目国王尚敬王の時代に琉球王国の正史として編纂された史書。
中山世鑑中山世譜と並ぶ琉球史の王府編纂の正史とされる書物。
■本巻正巻22巻、同付巻4巻、外巻正巻3巻、同付巻1巻から成る。
■記述は漢文による。
■鄭秉哲、伊佐川親方佑実等により編纂された。

中山世鑑 (ちゅうざんせいかん)

琉球王国の初めての琉球正史
[書物] [正史]
 生没年:1650
■1650年に成立した、中山世譜球陽と並ぶ琉球史の王府編纂の正史とされる書物。
■琉球王国の初めての正史とされる。
■全6巻。
■記述は和文体による。
■琉球王国・第二尚氏王統・10代目国王尚質王の摂政・羽地朝秀により編纂された。

尚泰王 (しょうたいおう)

第二尚氏王統・19代目王で第二尚氏王統最後の王。
[人物] [国王]
 生没年:1843-1901
■琉球王国・第二尚氏王統・18代目国王尚育王の二男。
■琉球王国・第二尚氏王統・19代目国王であり最後の国王となった。
■琉球国王
■居城は首里城。
■在位:1848年~1872年。→琉球藩王。
■童名は思次良金。
■1848年、4歳で即位。
■1853年、ペリー来航。
■1854年、琉米修好条約締結。
■1855年、琉仏修好条約締結。
■1859年、琉蘭修好条約締結。
■1872年、国王退位後、引き続き日本の華族(侯爵)として琉球藩王となる。
■1879年、琉球処分により琉球藩に沖縄県が設置され、尚泰王は藩王としての地位を失い、琉球藩は消滅した。
■首里城退去も余儀なくされ、華族として東京に居を移すこととなった。
■1901年、尚泰は59歳でその生涯を終えた。
■墓陵は首里玉陵

尚育王

第二尚氏王統・18代目王
[人物] [国王]
 生没年:1813-1847
■琉球王国・第二尚氏王統・17代目国王・尚?王の長男。
■琉球王国・第二尚氏王統・18代目国王
■琉球国王
■居城は首里城。
■在位:1835年~1847年。
■童名は思徳金(うみとくがね)。
■士族の通える学校を作るなど教育に力を入れた。
■1844年、フランス海軍の来航にあたり宣教師の布教活動を許可。
■1846年、英国海軍が入港、宣教師ベッテルハイムが逗留した。
■墓陵は首里玉陵

尚灝王 (しょうこうおう)

第二尚氏王統・17代目王
[人物] [国王]
 生没年:1787-1834
■琉球王国・第二尚氏王統・14代目国王尚穆王の孫。尚穆王の長男・尚哲の4男。
■琉球王国・第二尚氏王統・17代目国王
■琉球国王
■居城は首里城。
■在位:1804年~1834年。
■童名は思次良金(うみじらがね)。
■尚?王時代に琉球の刑法典「新集科律」の編纂があった。
■墓陵は首里玉陵

尚成王 (しょうせいおう)

第二尚氏王統・16代目王
[人物] [国王]
 生没年:1803
■琉球王国・第二尚氏王統・15代目国王尚温王の長男。
■琉球王国・第二尚氏王統・16代目国王
■琉球国王
■居城は首里城。
■在位:1803年。
■童名は思徳金(うみとくがね)。
■わずか2歳で即位したが在位1年足らずで早世した。
■墓陵は首里玉陵

尚温王 (しょうおんおう)

第二尚氏王統・15代目王
[人物] [国王]
 生没年:1784-1802
■琉球王国・第二尚氏王統・14代目国王尚穆王の孫。尚穆王の長男・尚哲の二男。
■琉球王国・第二尚氏王統・15代目国王
■琉球国王
■居城は首里城。
■在位:1795年~1802年。
■童名は思五郎金(うみごるうがね)。
■1798年、国学(現沖縄県立首里高等学校)、平等学校を開く。
■墓陵は首里玉陵

尚穆王 (しょうぼくおう)

第二尚氏王統・14代目王
[人物] [国王]
 生没年:1739-1794
■琉球王国・第二尚氏王統・13代目国王尚敬王の長男。
■琉球王国・第二尚氏王統・14代目国王
■琉球国王
■居城は首里城。
■在位:1752年~1794年。
■寝廟御殿を創建。
■尚穆王の時代に「琉球科律」完成。
■「褒章制度」を整備した。
■墓陵は首里玉陵

尚敬王 (しょうけいおう)

第二尚氏王統・13代目王
[人物] [国王]
 生没年:1700-1752
■琉球王国・第二尚氏王統・12代目国王尚益王の長男。
■琉球王国・第二尚氏王統・13代目国王
■琉球国中山王→琉球国王
■居城は首里城。
■在位:1713年~1752年。
■蔡温を三司官に取り立て数多くの改革を行った。
■教育文化振興に力を入れ琉球を文化大国へ導いた。
■近世の名君と謳われた人物。
■1712年、薩摩藩の許しを得て琉球国司から琉球国王の王号に復した。
■墓陵は首里玉陵

尚益王 (しょうえきおう)

第二尚氏王統・12代目王
[人物] [国王]
 生没年:1678-1712
■琉球王国・第二尚氏王統・11代目国王尚貞王の孫で中城王子・尚純の子。
■琉球王国・第二尚氏王統・12代目国王
■琉球国中山王。
■居城は首里城。
■在位:1710年~1712年。

尚貞王 (しょうていおう)

第二尚氏王統・11代目王
[人物] [国王]
 生没年:1645-1709
■琉球王国・第二尚氏王統・10代目国王尚質王の長男。
■琉球王国・第二尚氏王統・11代目国王
■琉球国中山王。
■居城は首里城。
■在位:1669年~1709年。
■尚貞王の時代に蔡鐸(蔡温の父)が「中山世譜」を編集した。
■墓陵は首里玉陵

尚質王 (しょうしつおう)

第二尚氏王統・10代目王
[人物] [国王]
 生没年:1629-1668
■琉球王国・第二尚氏王統・8代目国王尚豊王の4男で、9代目国王尚賢王の弟。
■琉球王国・第二尚氏王統・10代目国王
■琉球国中山王。
■居城は首里城。
■在位:1648年~1668年。
■童名は思徳金(うみとくがね)。
■「中山世鑑」を編集した羽地朝秀を摂政とし数多くの改革を行なった。
■墓陵は首里玉陵

尚賢王 (しょうけんおう)

第二尚氏王統・9代目王
[人物] [国王]
 生没年:1625-1647
■琉球王国・第二尚氏王統・8代目国王尚豊王の3男。
■琉球王国・第二尚氏王統・9代目国王
■琉球国中山王。
■居城は首里城。
■在位:1641年~1647年。
■薩摩生まれ、17歳の時に即位した。
■「遠見番」を作り、烽火の制を定めた。
■黒糖、ウコンの専売制を始めた。
■墓陵は首里玉陵

尚豊王 (しょうほうおう)

第二尚氏王統・8代目王
[人物] [国王]
 生没年:1590-1640
■琉球王国・第二尚氏王統・5代目国王尚元王の第3王子・大金武王子朝公の4男。
■琉球王国・第二尚氏王統・8代目国王
■琉球国王
■居城は首里城。
■在位:1621年~1640年。
■童名は思五郎金。
■神号は天喜也末按司添(てにぎやすゑあんじおそい)。
■1636年、薩摩藩から琉球国王の王号を剥奪され、琉球国司を名乗るようになる。
■墓陵は首里玉陵
■1623年、おもろさうし全22巻のうち、1、2巻を除く20巻が編纂された。

尚寧王 (しょうねいおう)

第二尚氏王統・7代目王
[人物] [国王]
 生没年:1564-1620
■王家分家・小禄御殿3世、尚懿・与那城王子朝賢(第2代尚真王の孫)の長男で、尚永王の娘婿。
■琉球王国・第二尚氏王統・7代目国王
■琉球国王
■居城は首里城。
■在位:1589年~1620年。
■童名は思徳金。
■神号は日賀末按司添(てだがすえあんじおそい)。
■分家から国王に就いたことから、尚寧王一族を尚清王の家系「首里尚家」と区別する為「浦添尚家」と称する文献もある。
■1609年、薩摩藩・島津氏の侵攻を受け降伏。以後、琉球は薩摩藩と明の二ヶ国に両属する事となる。
■尚寧王は薩摩藩によって江戸に連行され、征夷大将軍の徳川秀忠に謁見、後に琉球に戻された。
■1613年、薩摩藩に奄美群島を割譲した。
■1613年、おもろさうし第2巻が編纂された。
■墓陵は浦添ようどれ

尚永王 (しょうえいおう)

第二尚氏王統・6代目王
[人物] [国王]
 生没年:1559-1588
■琉球王国・第二尚氏王統・5代目国王尚元王の第2王子。
■琉球王国・第二尚氏王統・6代目国王
■琉球国王
■居城は首里城。
■在位:1573年~1588年。
■童名は阿応理屋恵(あおりやえ)王子。
■神号は英祖仁耶添按司添(えぞにやすえあじおそい)、または日豊操王。
■1588年11月25日に30歳の若さで早世。継嗣はなかった。
■墓陵は首里玉陵

尚元王 (しょうげんおう)

第二尚氏王統・5代目王
[人物] [国王]
 生没年:1528-1572
■琉球王国・第二尚氏王統・4代目国王尚清王の第2王子。
■琉球王国・第二尚氏王統・5代目国王
■琉球国王
■居城は首里城。
■在位:1556年~1572年。
■童名は金千代、または鶴千代。
■神号は日始按司添(てだはじめあんじおそい)。
■1555年、父・尚清王の薨去に伴い兄弟の間で後継者争いが起きたが、父・尚清王の定め通り王位に即位。
■薩摩藩・島津貴久との良好な関係づくりに努めた。
■墓陵は首里玉陵

尚清王 (しょうせいおう)

第二尚氏王統・4代目王
[人物] [国王]
 生没年:1497-1555
■琉球王国・第二尚氏王統・3代目国王尚真王の第5王子。
■琉球王国・第二尚氏王統・4代目国王
■琉球国王
■居城は首里城。
■在位:1527年~1555年。
■童名は真仁堯樽金。
■神号は天続之按司添(てにつぎのあんじおそい)。
■1537年、奄美大島・与湾大親による反乱を鎮圧。
■倭寇に対する圧力や防備も強化した。
■尚清王の没後、王子達の間で王位継承争いが起こったが、尚清が生前に後継者と定めていた第2王子の尚元王国王に即位した。
■墓陵は首里玉陵
■1531年おもろさうしの第一巻の編集が行われた。

尚真王 (しょうしんおう)

第二尚氏王統・3代目王
[人物] [国王]
 生没年:1465-1527
■琉球王国・第二尚氏王統・初代国王尚円王の子。
■琉球王国・第二尚氏王統・3代目国王
■琉球国王
■居城は首里城。
■在位:1477年~1527年。
■童名は真加戸樽金(まかとたるかね)。
■神号は於義也嘉茂慧(おぎやかもい)。
■1500年、オヤケアカハチの乱を平定して八重山諸島を平定。
■1522年、与那国島を平定。
■地方の按司を首里に集居させ、中央集権化を図り王権の強化をはかった。
■50年に渡る在位で琉球王朝の基盤を充実させた。
■墓陵は首里玉陵

尚宣威王 (しょうせんいおう)

第二尚氏王統・2代目王
[人物] [国王]
 生没年:1430-1477
■父・尚稷、母・瑞雲。
■琉球王国・第二尚氏王統・初代国王尚円王の弟。
■1430年、伊是名島、諸見村生まれ。
■琉球王国の第二尚氏王統・2代目国王
■琉球国王
■居城は首里城。
■在位:1477年。
■神号は西之世主(にしのよのぬし)。
■(1441年)12歳、兄夫婦に連れられ首里に移動。
■(1453年)24歳、家来赤頭に昇格。
■(1463年)34歳、黄冠を賜る。
■(1469年)40歳、兄・尚円即位後は、越来(沖縄市付近)を領地とし越来王子を称した。
■(1476年)47歳、尚円王の薨去に当たり、尚円王の世子・尚真が幼い事から群臣の推挙を受け即位したがわずか半年で退位した。
■退位後は越来に隠遁して生涯を終えた。

尚円王 (しょうえんおう)

第二尚氏王統・初代王
[人物] [国王]
 生没年:1415-1476
■父・尚稷、母・瑞雲。
■妃・世添大美御前加那志。
■幼名を思徳金(うみとくがね)といい、以降は金丸(かなまる)と名乗る。
■1415年、伊是名島、諸見村生まれ。
■琉球王国・第二尚氏王統・初代国王
■琉球国王(琉球国中山王)。
■居城は首里城。
■在位:1469年~1476年。
■神号は金丸按司添末続之王仁子(かなまるあじすえつぎのおうにし)。
■(1434年)20歳、両親を亡くす。
■(1438年)24歳、妻と弟を連れ国頭村に移動。
■(1441年)27歳、首里に移動。越来王子(後の尚泰久王)に見い出されその家臣となる。
■(1452年)38歳、最高位・黄冠を授かる。
■(1454年)40歳、尚泰久の即位を機に、西原間切の内間領主に任命される。
■(1459年)45歳、御物城御鎖側官(貿易長官)に就任。
■(1460年)46歳、長年寵愛を受けた尚泰久王が薨去。尚徳王即位。
■(1468年)54歳、尚徳王との関係が上手くいかないまま内間村に隠遁。
■(1469年)55歳、4月尚徳王が薨去。重臣会議による次期国王推挙を受け尚円として王位に即位した。
■即位に当たり「尚氏」を名乗った背景として、当時の琉球経済は明との朝貢貿易により成り立っており、王統の継続を装う必要があったからと考えられる。
■第二尚氏時代に編纂された「中山世譜」「球陽」を見るにあたっても、第一尚氏一党に対する殺戮は行われている事から、王統交代にあたっての粛清が行われたのは間違いないと考えられる。
■天王寺・龍福寺・崇元寺を建立。
■朝貢貿易の進貢間隔を二年一貢と制定。
■墓陵は見上森陵~首里玉陵

尚徳王 (しょうとくおう)

第一尚氏王統・7代目王、琉球統一王朝・6代目王で第一尚氏王統最後の王。
[人物] [国王]
 生没年:1441-1469
■琉球国中山王。
■居城は首里城。
■在位:1460年~1469年。
■神号は八幡按司または世高王。
尚泰久王の三男(側室・宮里阿護母志良礼の子)。
■1460年、父・尚泰久王の死去により妾腹だが長兄・金橋王子を退けて第一尚氏王統・7代目王に即位。
■マラッカとの交易を開始。
■1466年、自ら2000の兵を率いて喜界島へ遠征し領土を拡大。
■足利義政に使節団を派遣。
■朝鮮から方冊蔵経を贈られる。
■天界寺を創建。
■1469年、29歳で薨去。直後に金丸(後の尚円王)がクーデターを起こし、第一尚氏王統一族はことごとく殺害、追放され、第一尚氏王統は滅亡した。
■なお、尚徳王の崩御については、久高島で愛妾にうつつを抜かしているうちにクーデターが起き、漁師から金丸即位を聞き、憤って海に投身したとの説もある。
■第一尚氏王統最後の国王となった。

尚泰久王 (しょう たいきゅうおう)

第一尚氏王統・6代目王 琉球統一王朝・5代目王
[人物] [国王]
 生没年:1415-1460
■琉球国中山王。
■居城は首里城。
■在位:1453年~1460年。
■神号は那之志与茂伊(なのしよもい)、又は大世主(おほよのぬし)。
■尚巴志の五男であり、前王・尚金福王の弟。
護佐丸の娘を妃とした。
■当初は越来間切を与えられて越来王子と呼ばれていた。
■第一尚氏王統・4代目王・尚思達王の時、越来王子時代に金丸(後の尚円王)を見出し王府官僚として推薦。
■1449年、兄である尚金福王の死去により王子兄弟による「志魯・布里の乱」が勃発、双方が共倒れになり、第一尚氏王統・6代目王に即位。
■銅銭・永楽通宝を元に大世通宝(たいせつうほう)を作成した。
■1458年頃、「万国津梁の鐘」を鋳造した。
■「護佐丸阿麻和利の乱」を鎮圧した。

尚金福王 (しょうきんぷくおう)

第一尚氏王統・5代目王 琉球統一王朝・4代目王
[人物] [国王]
 生没年:1398-1453
■琉球国中山王。
■居城は首里城。
■在位:1449年~1453年。
■在位期間:4年。
■神号は君志(きみし)。
尚巴志王の子であり、尚忠王の弟。前王・尚思達王の叔父にあたる。
■1449年、甥である尚思達王の死去により第一尚氏王統・5代目王に即位。
■「長虹堤(ちょうこうてい)」の建造…1451年、明からの冊封使を迎え入れるため、浮島と呼ばれる小港・那覇を貿易港として整備し、那覇市松山付近にあった伊辺嘉麻(いべがま)から崇元寺付近(那覇市泊)までの間に「長虹堤(ちょうこうてい)」と呼ばれる約1kmの堤防と橋からなる堤道を建設させ首里との道を繋いだ。
■当時の安里川、国場川流域は点在する小島の集まりであったが長虹堤の建造により、港・那覇の人口が増加するとともに埋め立てが進んだ。特に明治以降の埋め立てにより現在の形となった。
■尚金福王の崩御に伴い、息子の志魯と弟の布里が王位を争い「志魯・布里の乱」を引き起こした。

尚思達王 (しょう したつおう)

第一尚氏王統・4代目王 琉球統一王朝・3代目王
[人物] [国王]
 生没年:1408-1449
■琉球国中山王。
■居城は首里城。
■在位:1444年~1449年。
■在位期間:5年。
■神号は君日(きみてぃだ)。
■1444年、父尚忠王の死去により第一尚氏王統・4代目王に即位。
■尚思達王宝形の後、王位は叔父・尚金福王が継いだ。

尚忠王 (しょう ちゅうおう)

第一尚氏王統・3代目王 琉球統一王朝・2代目王
[人物] [国王]
 生没年:1391-1444
■琉球国中山王。
■居城は首里城。
■初代北山監守
■在位:1439年~1444年。
■在位期間:5年。
■1439年、父尚巴志王の死去により第一尚氏王統・3代目王に即位。
■南方貿易にも力を入れたとされる。

尚巴志王 (しょう はしおう)

第一尚氏王統・2代目王 琉球統一王朝・初代王
[人物] [国王]
 生没年:1372-1439
■琉球国中山王。
■居城は首里城。
■琉球王国の第一尚氏王統・2代目王。
■琉球王国最初の統一王朝を成立させた。
■在位:1421年~1439年。
■神号は勢治高真物(せじたかまもの)。
■21歳で父の後を継ぎ南山の佐敷按司となる。
■1406年、父・尚思紹と共に中山王・武寧察度王朝を攻略、首里に遷都、明の永楽帝に遣いを出し、父・尚思紹を中山王に即位させる。
■1416年、父・尚思紹と共に北山王・攀安知怕尼芝王朝を攻略、次男尚忠を北山監守として北部を管理下に収める。
■1421年、父・尚思紹王の崩御により中山王に即位。
■1429年、南山王・他魯毎の大里王朝を攻略し三山を統一、第一尚氏王統による琉球王国最初の統一王朝を成立させた。
■首里城を築き拡張整備した。
■那覇港の整備をし、中国、日本、朝鮮、南方諸国との交易を行なった。

尚思紹王 (しょう ししょうおう)

第一尚氏王統・初代王
[人物] [国王]
 生没年:1354-1421
■琉球国中山王。
■居城は佐敷城。
■琉球王国の第一尚氏王統・初代国王
■在位:1406年~1421年。
■神号は君志真物(きみしまもの)。
■父は鮫川大主(さめかわうふぬし)、母は大城按司の娘、祖父は伊平屋島の屋蔵大主
■1406年、長男・尚巴志が中山王・武寧を滅ぼし、明の永楽帝に遣いを出して、父である思紹が中山王となった。
その際、尚巴志は「父思紹は武寧の子である」と称して明に遣使している。
■1416年、長男・尚巴志と共に怕尼芝王統(北山王国)を平らげる。
■陵墓は「佐敷ようどれ」。航空自衛隊知念分屯基地管理地区(南城市佐敷)にあるゲートで「佐敷ようどれ」に行きたいと伝えれば通してもらえるようだ。

舜天 (しゅんてん)

舜天王統・初代王、初めての中山王(琉球国王)。
[人物] [中山王]
 生没年:1166-1237
■琉球国中山王。
■居城は浦添城。
■在位:1187年~1237年
■「中山世鑑」(1655年)や「中山世譜」(1701年)といった正史では、初代琉球国王と位置づけられている。
■舜天の父は「中山世鑑」や「おもろさうし」、「鎮西琉球記」、「椿説弓張月」などでは、保元の乱で流罪となった源為朝(鎮西八郎為朝)で、母は大里按司の妹とされている。
■幼名を尊敦(そんとん)といった。
■15歳で浦添按司となる。
■22歳(1187年)の時、謀反を起こし中山王に就いた利勇を討った功績により諸侯の推挙を受けて中山王となった。
■歴史的資料としては国王頌徳碑(石門之東之碑文)(1522年)や浦添城の前の碑文(1597年)にその名をみる事ができる。
■実際には王ではなく按司と称していたと考えられる。

琉球・沖縄の歴史上の偉人や事柄辞典。